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第1話 私の仕事人生のスタート
私は、1977年に同志社大学工学部電子工学科に入学しました。
当時は、電子工学が華やかな時代でした。
電子工学と言っても、パソコンなどが無い時代なので、システムではなく電子回路や電子材料が中心の学科でした。
たまたま、ゼミの教授が大型コンピューターの担当だったので、ウン億円の日立製のコンピューターを自由に使うことができました。
当時の入力方法はパンチカードでした。
タイプライターのような機械でパンチカードに穴をあけてプログラムします。
パンチカード1枚が、1命令です。1000ステップのプログラムだと1000枚のパンチカードが必要になります。
たぶん想像できないですね。
4回生の6月頃だったと思いますが、就職の希望調査がありました。
やはり電気メーカーが良いなと思い、地元の松下電器を希望しました。
成績上位から学校推薦がもらえるのですが、幸いにも松下電器は採用枠が多く、ギリギリのところで学校推薦をいただきました。
7月に松下電器の採用の3名が同志社にお越しになり、1時間程度、面接をされました。
そして、1週間後には内々定との電話が教授にありました。
私は、会社を訪問することも、工場を見ることもなく、就職先を決めたのです。
今では信じられないことですね。
こうして、就職の心配をせずに、残りの大学生活を楽しむことができました。
本当に感謝でした。
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第2話 入社試験の再試験?
私の就職は大学4回生の時に、面接1回だけで就職が決まりました。
安心していると、11月に形式的に入社試験を行うとの連絡がありました。
松下電器の本社に行き、試験を受けました。
キレイな会議室で、大勢の内定者と共に、専門の試験に取り組みました。
はっきりと覚えていますが、あまりできませんでした。
そのため、1か月後にカッコ悪いことが起こったのです。
もう内々定をもらっているので、勉強もせずに受験したのが原因でした。
12月頃に、何と「成績が悪いので再試験を行う」との連絡がきたのです。
学校にも親にも連絡がいき、大いに赤面しました。
再試験には、しっかり勉強していきました。
その結果はなかったのですが、内々定は取り消しにならなかったので、良かったです。
今だったら、即、取り消しでしょう。
太っ腹な会社に、感謝しました。
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第3話 新入社員とふろしき
1981年4月、松下電器産業株式会社(現在のパナソニック)に、無事、入社できました。
同期入社は約800名です。男女雇用機会均等法の前だったので、全員が男性です。
本社で入社式があり、すぐに2週間の導入研修行われました。
入社式の前に会社から本や資料などが送られていました。
そのガイダンスの中に、おかしなことが書かれていたのです。
本や資料一式を、ふろしきで持参しなさい…
ふろしき?
一瞬、何のことかわからなかったのですが、母にふろしきを借りて持っていくことにしました。
半信半疑だったのですが、本社に向かうスーツ姿は、みんな、ふろしきを持っていました。
研修は、大阪郊外の研修センターで行われました。
研修センターは、もより駅から一本道を15分程度歩いたところにありました。
毎朝、毎夕、800名の若いスーツ姿が、ふろしきを抱えているのです。
たぶん、異様な風景だったと思います。
なぜ、ふろしきだったのか、今でも分かりませんが、数年後には袋に代わっていましたので、あまり理由はなかったと思います。
毎朝、呪文のような社訓を唱和するなど、古臭いなと感じました。
私のドキドキの会社生活のはじまりでした。
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第4話 巻物と所感 新入社員研修で驚いたのは、巻物と所感です。
巻物には、企業理念が書かれていました。
朝一番に全員で朝会を行います。その際に、その巻物を使います。
巻物の紐を解き、のばして両手で持って、書かれている内容を読み上げるのです。
半世紀以上前に作られたもので、難しい漢字で書かれています。
一行一行、読み上げ、全員で唱和します。全部で5分程度はかかったと記憶しています。
その後、5分程度の所感を述べます。
自己紹介や研修で感じたことを、みんなの前で話しをするのです。
毎朝、交代で巻物の唱和と所感を行います。
これは、研修が終わり工場に配属になっても、行われていました。
創業者の故松下幸之助氏の教えを伝えていたのです。
非常に大きな強い思いが綴られていましたが、あまりにも大きすぎてピンと来なかったことを思い出します。
会社の歴史や考え方を学び、その内容が理解できました。
2週間の導入教育は、こんな感じで終了しました。
いよいよ、800名の新入社員は多くの工場にばらばらに配属になり、製造実習がスタートします。
ここでもドキドキしましたが、すぐに違和感に変わっていきました。
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第5話 工場でよさこい踊り 工場の生産ラインでの製造実習がスタートしました。
2か月間、現場でモノづくりを実際に行うのです。
私は、大阪の工場でしたので、年配の女性が多い現場に配属されました。
現場の人たちから、色々と教えてもらい生産を行いました。
残業もなく、定時で帰っていたのですが、ある日、残るように言われました。
工場のメンバーも大勢集まっていました。
何をするのだろうと思っていたら、みなさんに鳴子が配られました。
会社の運動会で、工場対抗で行う踊りの練習だったのです。
私の配属された工場では、「よさこい」を行うのです。
先生らしき人が来られ、大勢の参加者に踊りの指導をしてくれました。
工場の通路で、作業服のまま踊りの練習をするのです。
予想外の展開に、びっくりたまげました。
当時はイヤだったのですが、数年後にはその行事もなくなってしまいました。
今思えば、工場に元気も配慮もあったのです。
良い時代に入社できたと思いました。
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第6話 はじめての寮暮らし 2ヶ月の製造実習の後は、販売実習です。
こちらも2か月間、電器店に行って販売を手伝うのです。
ちょうど初夏の頃で、主にエアコンの取り付けの手伝いが多かったです。
私は、栃木県の電器店に行くように言われました。
宇都宮の寮に入り、東北本線に乗って、電器店に通いました。
実は、これが実家を離れての最初の生活だったのです。
当時の寮は4人部屋で、二段ベッドが2台ありました。
そして、一人ひとりに机とロッカーが与えられました。
食堂で食事をして、大きな風呂に入り、共用のトイレを使います。
運よく私の部屋は3人で、先輩と同じ研修生の3人で、2か月間、生活しました。
部屋では、ほとんどプライベートはありませんが、楽しかったと記憶しています。
ただ、遅い時間になるとお風呂の湯が少なくなっているのは、少し困りました。
電器店の休みに合わせての休日となるため、研修生の休みはばらばらでした。
私は、確か木曜が休みだったと思います。
でも、毎木曜に宇都宮周辺の日光や烏山、そして、東京などにも足をのばしました。
楽しかった青春のひと時でした。
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第7話 販売実習での経験 2か月間の販売実習での話です。
週に6日間、寮からバスに乗りJR宇都宮駅に行き、そこから東京方面に東北本線に約1時間乗って、販売店に通いました。
1時間半ぐらいかかったと記憶しています。
4名の研修生が同じ方面だったので、一緒に通いました。
みんな違う販売店に行くので、東北本線に乗って、一人ずつ下りていくのです。
私が一番遠かったので、全員を見送りました。
販売店では、店の掃除や店番、そして、販売店の社員と一緒にエアコンの取り付けや、テレビや冷蔵庫の設置を行いました。
社員の人はベテランなのでテキパキとこなしていきますが、私は初めてのことばかりで、グズグズしていました。
こんなことで役にたっているのかなと考えたことを思い出します。
私はメーカーの社員なのに、情けないことでした。
それも仕方ありません。
ほとんど研修もなく、販売店に行くわけですから、何もできないのです。
なかなか肩身の狭い2か月間でした。
今、考えると原因らしきことが想像できました。
以前は、もっとしっかりした指導を行った上で、販売店に送り込んでいたはずです。
しかし、私の入社した前年から採用人員が急激に増えたので、手が回らなくなったようです。
大勢の研修生を販売店に割り当てるだけで、精いっぱいだったのでしょう。
研修生同士、話しをすると、実習している内容がバラバラだったのです。
当時は何とも思わなかったのですが、たぶんそんなことだったのでしょう。
変化に対応できなかったことが、真の原因のようです。
今の時代では、変化に出来ることが、もっとも重要だと感じます。
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第8話 開発部門での研修 私は生産技術を希望していましたが、販売実習の後の研修は開発部門にいきました。
工場の製品開発をしている部門に入り、実習を行うのです。
とは言え、製品設計ができる訳でもないので、製品を勉強した程度で終わりました。
3ヶ月ほどだったと思うのですが、何をやっていたのか思い出すことができません。
あまり印象の残る研修ではなかったようです。
でも、印象的だったことが、いくつかありました。
一つは、100名ほどの開発部門で仕事をしていない人たちがいたことです。
3~4人の年配の人たちが、結構広いスペースを占有して座っていました。
朝は新聞をゆっくり読み、昼にはお茶を飲みながら歓談していたのです。
先輩に聞いても、はっきりしたことを教えてくれませんでした。
今になって思えば、定年前の閑職だったのでしょう。
二つ目は、コンピューターを使える人がほとんどいなかったことです。
まだ、パソコンが登場する前なので、オフコンと呼ばれた高額のコンピューターしかなかった時代です。
その開発部門にも、1台導入されましたが、誰も使わないのです。
私は学校で大型コンピューターを使った経験があったので、コンピューターを使えるようにして欲しいと指示を受けました。
誰も使わないのは、もったいないなと思いながら、回路計算のソフトを作ったことを思い出します。
技術があるのかないのか、不思議に感じた研修でした。
仕事を少し甘く考えてしまったようです。
今考えると、この甘さが長い会社人生の中で、結果的にマイナスになってしまいました。
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第9話 あこがれの職場に配属 技術研修中に、配属先を教えてくれる面談がありました。
技術研修を行っている事業部に配属されるのだと思っていました。
悪くはないのですが、何となく気に入らなかったのです。
でも、告げられた配属先は本社の生産技術部門でした。何と、第1希望でした。
いよいよ、配属先でのスタートです。
私を含め7名が配属されました。
最初に、総合朝会で自己紹介をしました。
メンバーの一人が「あこがれの職場」と話し、大きなどよめきが起きました。
私も思っていたのですが、みんな同じだったのだと、今でもよく覚えています。
私は、3名一緒に計測制御装置の設計部門に配属になりました。
部課長4名と顔合わせを行い、仕事内容などを聞きました。
その後、色々な形で長い間お世話になったのですが、残念ながらお二人がお亡くなりになりました。
希望に満ちた会社生活がスタートしました。
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第10話 さっぱり仕事がない 会社での仕事がスタートしたものの、弱ったことがありました。
景気が悪く、仕事がさっぱりとなかったのです。
後から分かったことですが、私が配属された生産技術は、業務量が大きく変動する部署だったのです。
景気が悪くなると、いっせいに設備投資を控えるので、仕事が激減するのです。
先輩より、過去のテーマの図面修正などの指示を受けるのですが、すぐに終わってしまいました。
すると、その後は延々と自習をすることになるのです。眠かった!
毎日、定時で帰されました。
今だったら、感謝するところですが、当時の私にとっては辛い毎日でした。
そんな毎日が数ヶ月経過したころ、体調が極めて悪くなりました。
病院に行って精密検査をしてもらいましたが、特に悪いところはない…
人として役に立たないのが、いちばん辛かったようです。
暇なときは、ろくなことを考えないのです。
会社に期待されていない…
何と、退職を真剣に考えはじめたのです。
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